02
今日は少し市場を見て、それから都に向かえばいい。
昨夜立てた予定を確認して、ひび割れた鏡の破片を見ながら髪を整える。
大切にしないと、髪はもう二度と生えてこない。
頭皮がなくなっていく自分を想像しては震えた。
若くして死んだが、まさか死んだ後禿げの心配をすることになるとは。
そうならないためにも、都に通う必要があるのだ。
自称「理美容師」は信用できない。
頭部には新しい損傷はなく、まだしっかりと自我を保っていられる頭の良い自分に安堵した。
脳をやられると生前の記憶を失ってしまう。
そうなっては、ただの動く死体だ。
本棚の洋書の奥に隠している財布を引っ掴み、ぼくは死んでからのマイホームである古びたアパートの二階の一室を出た。
軋む錆びた金属製の階段を下りると、今まさに一階の住人である中年男性の死体が散歩から帰って来るところだった。
「おはようございます」
「お〜〜!うきばくん、おはよう」
間延びした声で応えてくれたこの男は、何かとぼくを気にかけてくれる明るいご近所さんだ。
一人暮らしは死後が初めてという話を大家から聞いて、心配なのかちょくちょく訪ねて来たり、生活する上での相談に乗ってくれたりする。
何でも、同い年くらいの息子がいたらしい。
腕の傷口に蛆虫が数匹わいている以外は、本当に素敵なご近所さんなのだ。
「おはよう〜ってことは、今何時だ?」
「朝の八時台だと思われますね」
ぼくの返答に、男は「あちゃ〜」と頭をかく。
あまり強くかきすぎると禿げますよと言いたいが、これが彼の失敗したときの癖である。
無意識にやっているようで、以前注意したが全く直らない。
彼はどうやら昼の散歩に出たつもりだったらしいが、時間の感覚があやふやな死者の世界「境界」では、体内時計も狂った末に死ぬ。
日付が変わったのに気付かなかったのだ。
「配給の時計を貰うべきです。これから市場に行くのですが、その後都に寄るのでご一緒しませんか?」
自我を失い襲ってくる死体や、悪人がたむろする場所もあるので、一人で外出するのはリスクが高い。
いつも一緒だった彼がいない今、自分を守るのは己の力のみである。
腕っぷしは強い方だと思っているが、どんなことにも上には上が存在する。
囲まれて袋叩きにされては終わりだ。
境界は無法地帯も多い。
きっとこの男は、息子同然のぼくが心配でついてくるだろう。
「えぇ〜!いいのかい?」
予想通り、男は遠慮がちながらも食いついてきた。
「もちろん」と返す。
アジア出身の彼は学生時代、拳法を習っていたと前に話してくれたのだ。
体も丈夫で頭も良く、なかなかに心強い。
男は「君のナイトになれて光栄だなぁ〜」とひとしきり喜んだ後、「車を取って来るよ」とアパートの裏に走って行った。
頼られたことへの嬉しさを隠す気もない様子で、何故だかぼくは大型犬に懐かれているような気分がした。
この世界で乗り物の免許を取る死体は少ない。
それこそ、全人口の半数にも満たない。
彼の車に乗せてもらうのは初めてではないが、そんな理由もあり、座席の窓から景色がどんどん変わっていくのを見る度に感動する。
「生前は彼の車を運転させてもらったな」と感傷深くなりながら、ぼくはそろそろ免許を取るかどうかを考え始めていた。
死んでもずっと好きな相手がいるのはいいよね。